書評『運は創るもの 私の履歴書』
小さい頃はいじめられっ子で勉強もからきしダメ。サラリーマンになってもパッとせず。「他社より5年先をゆく」経営を進めるニトリを生み出した、似鳥昭雄さんの半生です。
著者は、ここまでニトリを成長させることができたのは80%運だと言います。しかしその運は偶然の産物ではなく、
運は、それまでの人間付き合い、失敗や挫折、リスクが大きい事業への挑戦など、深くて、長く、厳しい経験から醸成される
そんな思いが込められた書籍です。
内容
幼少期〜青年時代
1944年に樺太で生まれた著者。父は樺太に移住、そこで母と知り合い著者を産みます。父は敗戦後にシベリアに抑留されたそうです。母はソ連軍の嫌がらせにも負けない気丈な性格。昭和21年に日本に船で帰ることを決めます。当時は引き揚げ船が3隻沈められた事件もありましたが、無事に帰国します。
数年後、シベリアから戻った父と合流、父は大工を始めます。大工の経験は全くなしで40代後半からの見習い。後に土木会社を設立します。母はヤミ米を販売。ヤミ米は地元の農家から米を刈り取る前に青田買い。農協より少し高く買い、利ざやを少なくして正規米より5〜10%安く売ったそうです。度々の警察の取り締まりにもめげず、商売を続けます。父が大工をやりながらヤミ米の仕入れと物流を担当するマーチャンダイザーで、母が販売。思い返すとニトリの初期の経営に似ていたそうです。
昭和20年代、とにかくちょっとでもヘマをすると両親から殴られていました。父からベルトで気絶するまで殴られたり、熱があっても手伝いは休めない。
小さい頃からいじめられっ子。学校でもヤミ米を売ってたせいで、「ヤミ屋」と罵られます。貧乏なので継ぎ接ぎだらけの服、それがまたいじめの原因になります。ヤミ米の配達中には自転車ごと川に突き落とされたことも。
勉強は全くできず、通信簿は1か2ばかりだったそうです。中学と高校ではカンニング。しかし父は成績のことに関しては寛容でした
お前は頭の悪い人間が結婚して生まれた子だ。だから勉強ができないのは当たり前だ。
だから人より努力するか。人のやらないことをやるかだ。
父の会社の手伝いが嫌だった著者は、札幌短期大学に入学。学校にはろくにいかず、アルバイトやナンパに精を出します。後に北海学園大学に編入し、卒業します。
幼少期から青年期にかけて、
- ヤミ米の配達
- 落ちた高校の校長先生にヤミ米を届け、補欠合格
- 不純異性交遊
- 中学、高校時代は創意工夫をこらしたカンニング
- お歳暮の配達では、車で子供にぶつかり賠償金
- 電車にもぶつかり賠償金
- お金がない女性に住む場所と仕事を斡旋して、仲介料をとる
- NHKのど自慢に出演するも、ワンフレーズで終了
- アルバイトでスナックの取り立て
等、かなりの武勇伝を残しています。
サラリーマン時代
大学卒業後に父の経営する会社に就職しますが、家出。札幌で広告会社に就職。広告の契約を取ってくる仕事でしたが、契約は全く取れず。花札好きの所長に取り入って首をつなぎますが、結局解雇。職を探すも全くダメで、解雇された広告会社に懇願してなんとか再就職します。
- カラオケでよその会社の人に下手くそと野次を飛ばし、集団で喧嘩。
- 結婚を考えていた女性は浮気。その彼女を実家に返そうと、車に無理やり乗せようとしたところを通報され留置所入り。
武勇伝をさらに積み重ねます。
ある時父の会社の専務にばったり出会い、父の会社に1年ぶりに戻ることに。しかし著者の管理する現場で作業員宿舎が火事、責任を取って退職します。
著者は言います。
サラリーマン時代の私がダメだったのは、ロマンとビジョンがなかったからだ。
独立
父の経営する会社が所有する土地で、家具屋を始めます。家具の将来性や可能性を考えたわけでなく、ただ食べていくための生業として選んだ家具の道。同業の知り合いもおらず、問屋も知らない。
当時23歳の著者、手当たり次第に家具問屋を回りますが、全く相手にされません。
最後に当たった問屋でなんとか取引してもらえることになり、札幌に”似鳥家具卸センター北支店”をオープンします。”卸”で安いイメージ、”センター”で大きいイメージ、”支店”で他に本店があると思わせるためにつけた名前でした。
最初の1週間はよかったものの、その後売り上げは伸びず。従業員も雇えず、客も少ないときは漫画を読みふけっていたそうです。
- 食べるものにも困り、3食とも15円の即席麺ばかり食べていたら脚気になり、視力も低下。
- 歯茎からは出血し、客に気味悪がられる。
まだまだ武勇伝は続きますが、商売の方はさっぱり。軽い対人恐怖症だった著者、初対面の客とまともに商談ができなかったそうです。
そんな著者を見かねた母の提案でお見合い、8回目で現在の奥さんとなる人に出会います。24歳で愛想がよく、度胸も満点、元「女番長」と結婚します。
さっぱりだった商売がこの結婚を機に大きく変わります。奥さんが販売を担当し、著者は仕入れや物流、店づくりに専念します。この役割分担が似鳥家具卸センターを成長させる原動力になったそうです。
奥さんは非常に寛容な方で1ヶ月連絡しなかったり、以前の妻候補の写真をアルバムに貼っていても非難されることはありませんでした。愚痴も言わず、嫉妬もしない。
外に子供ができたら、私が育ててあげるわよ
と言ってくれる妻でした。著者の武勇伝もかなり多いですが、妻の内助の功のエピソードにも事欠かないそうです。
しかし、著者の武勇伝は止まりません。
- レジから金をかすめ、悪友たちと居酒屋へ
- バレないように100m離れたところに車をとめてパチンコへ
- 配達先でビールとおつまみをだされ、家内を2時間待たせる
1号店が順調に軌道に乗り、さらに店舗を増やすことを考えます。ハッタリを並べて銀行から借金、2店舗目をオープンします。驚くほど売れたそうで、2年後には借入金を返済したそうです。
その後、さらに店も増え会社も設立しますが、ライバル店の影響で売り上げが落ち、資金繰りが悪化。赤字になり、金融機関からも融資をストップされます。この頃はうつ状態で死ぬことばかり考えていたそうです。
そんなとき、米国の家具店を視察する話があり、藁にもすがる思いで参加します。
アメリカの西海岸での視察を終えた著者、様々なことを学びました。品質や機能が素晴らしく、用途や価格帯が絞り込まれていて、色やデザインがしっかりとコーディネートされている。しかも価格は日本の3分の1。
すなわち実質的に米国の所得は日本の3倍あるということを意味するわけだ。
米国の豊かさを実現したいと決意する著者。給料は3倍にはできないが、価格を3分の1にすることはできるかもしれない。それまでの悩みがちっぽけに思えてきました。
ちなみに米国視察でのトラブル。
- レクチャーの途中で感動しながらも居眠り、目がさめると誰もおらず迷子。
…
米国視察で覚醒した著者、長期計画を立てます。
最初の10年は「店づくり」、次の10年は「人づくり」、その次の10年は「商品づくり」
さらに銀行からお金を借り、店舗を増やしていきます。そして名前を「ニトリ家具」に変更します。
倒産品などを安く仕入れたりもしましたが、トラブルが多かったそうです。直接メーカーから仕入れようとすると問屋が黙っていない。仕入れにはかなり苦労したとのこと。問屋にバレないように夜遅く工場にいって、現金片手に交渉したりもしたそうです。
一般客に掛売りをしたり(トラブルが多く、後にやめますが)、当時客によって値引きするのが当たり前だったのに価格を同一価格に一本化するなど工夫を続けます。
もちろん武勇伝も続きます。
- 1万円札に似せたクーポン券を作り、紙幣偽造の罪に問われそうになる
- ゴリラのCMが大量のクレームを受け中止
- ある店舗のオープン時に気球に来店客を乗せ、警察から大目玉
- 九州で買い付けた家具20トンを持ち逃げされる
- 営業部長が商品横流し、20人の社員のうち16人が関わっていた
- 経理部長は手形を金融会社で現金に変え、懐に入れてしまう
- 店の販売員も売り上げを懐に入れる
特にエアドーム型の店舗のオープンがかなり面白いです。
- 空気で膨らますエアドーム型の店舗をオープンするも、雪で潰れ家具に傷がつく
- 店内が暗く、サーチライトで照らすが眩しく、下を向いて入るように案内する
- 店内に100本くらい街灯を立ててみる
- 停電になると空気圧がおち、店内の客を緊急避難、入り口に殺到してパニック
- ドームの雪下ろしをするが、軽くなるとドームに弾かれて落ち、心肺停止になった社員がいる(結局は助かりますが)
- 店内は夏は40℃超え、冬は零下10℃
もうめちゃくちゃ(笑)。
その後も、丘を削ってオープンするなど店舗は着々と増えていきます。
チェーンストア
あるときチェーンストア研究のシリーズ本を出している渥美俊一氏を知ります。勘と度胸だけを頼りに多店舗化を進めていた著者ですが、チェーンストア経営について科学的かつ論理的に書かれている氏の書籍に感銘を受けます。そして氏が運営するチェーンストア研究団体のペガサスクラブに加盟します。
それまでは行き当たりばったりの人海戦術、作業手順もばらばら。
当時の私は長時間労働の「頑張れ主義」だったが、チェーン経営は頑張らなくてもできるようにする手法。全く逆だった。
年に2回、春と秋に箱根での泊りがけのセミナーに参加したそうです。
著者はペガサスクラブでも成績は悪かったそうですが、先生の「うさぎより亀がかつ」という言葉が勇気を与えてくれたそうです。
この先生にはよく怒られてたみたいです。先生に自分の会社を見てもらおうと迎えに行くが、社長自らが車を運転していたことに先生が激怒。店舗についた後も先生からはカーペットの色や、なんやかんやでダメ出しされまくったそうです。
社員のいる前で先生に罵倒され、しばらくはペガサスクラブからは足が遠のきます。
その後コンサルタントを5人ほど替えたそうですが、誰もしっくりこない。商品作り、組織、教育、ローコスト運営ができない。結局渥美先生しかいないと、再び門を叩きます。
怒られてばかりでしたが、店舗の立地についてだけは褒められました。
怖い先生でしたがやる気を起こさせる「ロマンとビジョン」があったそうです。
成功体験など現状を永久に否定して再構築せよ。守ろうと思ったら、衰退が始まる。
挑戦は続く
80年代には在庫管理システムを大型コンピューターからパソコンに替えたり、デジタルカメラを使用した広告作りができるシステムを凸版印刷と共同開発したり、様々な試みにチャレンジします。
採用も最初は中途社員ばかりでしたが、75年には大卒の定期採用を開始。しかし1期生はスパルタ教育が原因で全員辞めてしまったそうです。その後は待遇を改善し、特に79年入社の4期生はのちに大きく活躍してくれます。
”企業はやはり「人」だ”という著者、父の教えがずっと生きているそうです。
おまえは頭が悪いから、優秀な人材を使うしかない
その後もチャレンジは続きます。
- 家具専用自動倉庫の導入→低価格化と出店拡大に大きな力を発揮
- 海外からの仕入れ
- 本州進出
- 上場
- 海外に工場建設
- 中国進出
- 米国進出
もちろんトラブルも続きます。
うまくいき始めると何かがおこる。ニトリのパターンだ。
感想
一言でいうと、もうメチャクチャ!思いついたら何でもやるタイプの方なんでしょうね。相当大変だったと思いますが、書籍では面白おかしく書かれていて暗い感じは全然ありません。もう面白いくらいにトラブル続き。
正直お手本にするにはちょっとレベルが高すぎます(笑)。並みの人間では無理!
しかしトラブルがあろうと諦めず、目標に向かって亀のようにしっかりと歩んで行く。トラブルはより良くなるための糧。トラブルって乗り越えられるものなんだ、ということを教えてくれます。
”愛嬌と度胸”が大切と著者は言います。この本の表紙の著者の笑顔がそれを表していますね。
しかしそれにしても、武勇伝多すぎでしょう…これからさらにどんな武勇伝を見せてくれるのか、楽しみです。